いっちゃん消失ねたです。
苦手な方はご注意ください。


















 誰かが髪をなでている。
 ウトウトと心地よいまどろみにたゆたい水のように広がっていた意識がそれの優しい感触を認識して、ゆっくりと”俺”を形成し始める。
 暖かく乾いた指先でサラサラと髪を梳き、頬や唇を辿る動きは無償に優しい。
 誰の手だろうと、まだ夢に捕らわれながら思う。
 俺はこの手の主を知っているはずだ。暖かくて大きくて、優しい指を持った男の手。
 俺の頭を小さな子供にするようにヨシヨシと撫で、頬を耳の裏をくすぐり、唇をそっと押さえる。
 誰の手だろう。
 穏やかな波のような眠りに身を浸す思考は、厚い膜に覆われていてただでさえ鈍い回転数を極端に落としているから、酷く歯がゆい。
 目を開けよう。
 起きて確かめよう。
 手を取って、しっかり捕まえないと…
 夢の中で覚醒しようともがく俺の胸元を、その手がリズムをつけてあやすように叩く。
 子供を寝かしつけるような静かな甘さで、ゆっくりと優しく。

―すみません、邪魔してしまって。…まだ寝ていても大丈夫ですよ―

 酷く甘く低く響く静かな声が耳朶をくすぐる。
 ああ、俺はこの声が好きだったのに。

―おやすみなさい―

 額に触れる柔らかな感触も、越えも、この指も、手のひらも、何もかもが大好きだったのに…。



 どうしても、この手の主が誰か思い出せないんだ。



「あ、あの…キョン君?」
 躊躇いがちに肩を揺すられて浅いまどろみから現実に引き戻される。
「あ…すみません。寝てましたか…俺」
 どうやらSOS団の部室で机に突っ伏したまま眠っていたらしい。肩やら首やら背中やらが鈍く痛んで俺はぬっと大きく伸びをした。
「あの…嫌な夢でも見たんですか?それとも…どこか痛い?」
 俺を起こしてくれたSOS団のエンジェル、朝比奈さんは困ったように顔の前で手を組み、上目遣いにおずおずと俺を見上げてきた。…いつもならそんな姿に抱きつきたくなるほどの愛しさを覚える俺も、寝起きなせいかさほどの感動も覚えなかった。
「え?…いえ、なんともありませんけど…」
 傍らに立ち尽くす朝比奈さんの童顔を見上げ、かすかに首を傾げると、彼女は困ったようなほっとしたような複雑な表情で微笑んでから、綺麗に折りたたまれたハンカチをよこしてくれた。ついでに、自分の眦を、ほっそりとした思わず頬ずりしたくなる程綺麗な指で示す。
「顔も、洗ってきたほうがいいかもね」
「え?…うわっ?なんだこれ…」
 言われて腕を頬にやった。
 その指先を見て、俺は初めて俺が泣いていると気が付いた。
 涙はもう止まっていたが、どれだけ泣いていたのか、瞼も目の下もすっかり濡れそぼっていて、朝比奈さんの挙動不審も思わず納得しようというものだ。
「覚えてなくても、きっと哀しい夢を見たのね」
「哀しい…」
 夢を見ていたような気はするが、どんな夢だったのか…。
 何か大事なものを探していたような気がする。何となく喪失感…虚無感、無力感を覚えはするものの…駄目だ。思い出せない。
「そうかもしれません。…ハルヒには内緒にしといてください」
「うん」
 濡れた目元を手のひらで擦り、ハンカチをありがたく借り受けてパイプ椅子を後にする。水道は廊下にしかないからな。
「…そういえば、ハルヒたちは?」
「涼宮さんは一旦部室に来たんだけど、その後何だか楽しそうに走って行っちゃいました。長門さんはお隣に行ってます。それから」
 ハンガーラックからメイド服を外していた朝比奈さんは、動きを止め、んーっと唇に人差し指を当ててすらすらと答えていく。
「それから、森さんはHRが長引くから少し遅れるってさっきメールが来てました」
「…そうですか」
 夢の中の喪失感、虚無感、無力感が一瞬ぶり返した気がした。
 頭を振ってそれを脳から追い出し、俺はハンカチを握り締める。
「じゃあ、行って来ます」
「うん。行ってらっしゃい」
 朝比奈さんが柔らかな笑みを浮かべて小さく手を振ってくれるのを視界に納め、扉を閉めてから憂鬱を押し出すように溜息を零す。
―おやすみなさい―
 夢の記憶なんてそんなに経たない内に薄れるもんさと自分に言い聞かせながら、俺はポケットに手を突っ込んでのんびりと廊下を歩き出した。

古泉一樹の消失。

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