「お帰りなさいマスター」
 かちゃりと玄関の鍵が開く音がして、俺はマスターを出迎えに玄関先に顔を覗かせた。寒そうに頬と鼻の頭を赤くした主人は、俺を見てふっと表情を緩めながら外との温度差で曇ってしまった眼鏡を外す。
 鞄を受け取り、眼鏡の曇りを拭っているマスターに今日一日の間に来ていた電話や客の事を報告していると、不意に顎をとられ上向かせられて、俺は思わず口を閉じた。
「その前に…出迎えの挨拶はそうじゃないだろう?ちゃんと教えたはずだ。きちんと言いなさい」
「………」
 うっと言葉に詰まる。先日教えられた言葉を思い出して頬がマスターに負けず劣らず染まっていくのがわかった。俺の脳内にある優秀なメモリーに刻まれた言葉は…主人に忠実なはずのボーカロイドの俺が思わず彼の趣味を疑ってしまうほどに恥ずかしい台詞だから。
「………………言わなきゃだめですか?」
「当然だろう?」
 指先から逃げようと軽く俯いても、決して強い力ではないのにその指先は俺を捕えて離さない。甘い色をしたマスターの瞳は真っ直ぐに俺を見下ろしていて、その淫猥さに電子回路が軋んだ音を立てた。
「………お帰りなさい、マスター。晩御飯できてますよ。お風呂も入れます。…それとも………………お、…お…………」
 脳内でビープ音。CPUが負荷に耐えかねて処理速度を落としている。ぎゅっと目と唇を閉じてごくりと喉を鳴らしてもそれは収まらない。

「無理っ!! 絶対無理!!言えませんマスターっ!!」

 マスターの身体を強く押して指先から逃げると、逆に強く抱きしめられた。
「主人の言うことが聞けないKAITOには、お仕置きが必要だね」
 ……にっこり微笑んだ主人が俺の顔を覗き込み、唇がふわりと重なる。ひんやりと冷えた唇は柔らかく、悪戯に何度も俺の唇を啄ばんだ。
「…ま、マスター…唇冷たいですよ。寒いんならまず、お風呂に…」
「うん?一緒に入る?」
「マスター…」
 少し低い声を出し、半眼で主人を睨む。…顔は相変わらず赤くて迫力も何もあったものではなかっただろうけど、マスターはくすくす笑いながら俺を開放してくれた。
「風邪ひいたら困るでしょう?ちゃんとあったまってきてください」
「照れないで一緒に入ってくれれば、もっと熱くなると思うんだけどな?」
「もうっ」
 軽口を叩いてばかりのマスターの背を押して脱衣所に押し込み、扉に背を預けてふぅと溜息。全く、うちのマスターはどうしてこう人をからかうのが好きなんだろう。
「KAITO。…KAITO、悪かったから。ちゃんとあったまるから、何か歌って」
「…ちゃんとあったまって上がってきたら、御飯の後に膝枕で歌ってあげます」
 コンコンと小さなノックの音の後に聞こえたマスターの声に、とがっていた唇が思わず笑みの形になってしまった。扉にもたれたまま返した俺の言葉に、マスターも声を出さずに呼気だけで小さく笑ったらしかった。
「じゃあ、早くあがるとしよう」
「ちゃんとあったまらなきゃだめですからね!」
「はいはい」
 ちょっとだけ、幸せだなと感じた。

ミクシにうpした小説に追記しました。
時々はこういったぼの〜っとしたのも好きです。