※ボーカロイド=歌うの専門のアンドロイドをご想像ください。
※マスターのビジュアルは各自それぞれご想像ください。
※少々猟奇的な表現があります。苦手な方はご注意下さい。


 マスターがいない間、俺がぼーっと見つめるのはちょっと高い位置にある窓。
 太陽が昇って、マスターが仕事に行った後、日が沈んでマスターが帰ってくるまでの間、この部屋で移ろうのはあの窓の向こうの空の色だけ。

 今日はマスター、帰りは早いのかな…。
 薄い色をした青空を見つめていると、思わず溜息が零れた。
 これから何時間待てばいいんだろう。何もないこの部屋で。
 …マスター…。
 何時まで続くんだろう。歌も歌えないままこの部屋で。

* * *

 俺のマスターは精神的に繊細な人なんだと思う。
 何かを信じる事を極端に怖がる人。
 …そんな風に俺が思っていることを知ったら、きっと怒ると思うけれど。
 俺はマスターの物で、マスターの物でしかありえない。マスターを裏切ることなんて絶対にないのに、マスター以外なんて…極端な話をすれば、どうでもいいとさえ言い切れるのに、それでも俺を信じてくれないマスター。
 信じるという行為そのものに怯えている人。

 だから、俺は閉じ込められている。



 なんにもない真っ白な部屋。
 あるのはベッドと、俺が一人。
 天井付近に作られた天窓から見える外は高くて遠い。
 ベッドにもたれて、最後にマスターが教えてくれた曲を唇だけで囁いて、また溜息。
 俺はボーカロイドだから、マスターにどんな扱いをされても文句は言えないし言おうとも思わないけれど、手首と首に嵌められた枷の重みがそのままマスターの不安なんだと思うと哀しくなる。
 鉄製の枷と、そこから伸びる鎖。鎖の先はベッドのパイプに繋がっていて、頑丈な錠で止められている。

 インストールされた当初は普通だったんだ。
 パソコンに取り込まれ、俺が起動した時、マスターは嬉しそうに笑ってくれた。
 柔らかい、暖かい笑顔で迎えてくれた。
 それが徐々に変わっていったのは何時からだったろう。
 最初は俺が上手く歌えないからだと思ってた。
 だから、ちゃんと歌えるようになればまた笑ってくれると思って、マスターがいない間にインターネットを使って別のマスターのところにいるミク達やMEIKO達、KAITO達に話を聞いたりして俺なりに頑張った。……けど、マスターはそれが気に入らなかったみたいで……。

 マスターは、俺の喉を潰した。

 壊れて歌えなくなった俺をマスターは抱きしめてくれた。抱きしめて、愛してるよと、俺よりもつらそうな声で言いながら笑ってくれた。
 つらそうな声で、つらそうな笑顔で、マスターは俺にキスをした。
 マスターは初めて俺を抱いた。

* * *

「ただいまKAITO」
 気がつけば辺りは真っ暗で、天窓を見つめていた俺はマスターが帰ってきた音にも気づけなかった。
 主人はまだスーツのままで、ネクタイを緩めながらおかえりなさいと唇だけで囁く俺の顎を取り、軽い音を立ててキスをくれた。
 喉を潰されてここに閉じ込められてから…首輪を掛けられ、手錠に繋がれてから、マスターはまっすぐ俺のところに帰ってきて、俺のことを抱きしめてくれる。
 マスターを愛するようにプログラムされている俺は、こうやってキスをされたり、抱きしめられたりするのに、最初は戸惑いもしたけど今はただ嬉しい。
 主人は優しげに目元を細めて笑いながら、俺の頬や髪の毛を撫でて、何度もキスをくれる。それからぎゅっと抱きしめてくれて、ぽんぽんと背中を撫でてから手枷を外してくれた。
「明日は休みだから、一日中KAITOといられるよ」
 そう言って嬉しそうに笑うマスターに、俺は自分から抱きついた。


 食事も風呂も終わらせて、俺と一緒に色んな音楽を聴いてから、明かりを落としてマスターはベッドに入る。
 俺の手錠を元に戻して、俺を抱きしめながら目を閉じる。
 本当は同じようにマスターを抱き返したいけれど不自由な腕ではどうしようもなくて、眠る必要のない俺はまた、主人の寝顔から視線を移して天窓を見上げる。
 季節と時間によっては月が覗く窓の向こうも、今はただ星が微かに瞬いているだけ。
 出たいとか嫌だとか思うわけではない。主人が望む通りにしていたい。
 でも。
『愛してるよ、KAITO』
 俺の唇からまた、意識せずに溜息が落ちた。
 でもマスター。俺は…。
「また見てるね」
 不意にぎゅっと抱き寄せられた。耳元に触れるマスターの唇が感情を窺わせない低い声音でそう呟く。
 驚いて思わず吐息を零す俺に、主人は小さく笑った。
「俺が起きてるのにも気づかない位夢中だったの?」
 ぞくんと背筋が震えた。怖いくらい昏い声には聴き覚えがあって、背筋から全身へ泡のような恐怖がはじける。
 初めて俺に愛してると言ってくれた、アノ声と同じ、低く甘く優しく辛く、底の見えない深さで心地よく響く、主人の声。
「…愛してるよKAITO」
 嫌だとか、逃げ出したいとか、そんな事は思わない。
 思わないけれど、体が震えるのを止められない。そんな俺をマスターは優しく抱きしめてくれた。あんなに冷たくて昏い声を使う人だとは思えないほど暖かい手のひらで俺の髪の毛をさらさらと梳いて、コメカミに柔らかなキスをくれた。
「そうだ。…少し待っていて」
 手錠をベッドヘッドに引っ掛けて俺をベッドに繋いでから、マスターはまた唇にキスをくれた。それでも怯え続ける俺に優しく微笑んで、明かりも点けずに部屋を出て行く。
「ま、す…た?」
 潰れた喉で無理やり声を出して呼びかけてみても、耳にざらつく嫌な声がほんの微かに響いて空気へと溶けていくだけ。がたがたと隣の部屋からマスターが立てる物音は響いているけれど、きっと俺の声は彼の耳に届かない。
 ひゅーひゅー掠れた音を立てる俺の喉。
 俺はまたマスターを怒らせたんだろうとそれだけは何とか理解できるのだけど、どうして怒らせたのかもこれから何をされるのかもわからなくて、壊れたように体の震えが止まらなかった。
「かわいそうに。こんなに震えて」
 時間にして多分ほんの数分で戻ってきたマスターが、俺の頬をまたそっと撫でてくれる。
 暖かい手のひら。冷たい声。
「大丈夫だよ。すぐに終わるから」
 俺の唇にふぅわりと羽根のような軽いタッチの口付けを繰り返しながら…マスターはまた、俺よりも何かに怯えたような瞳で囁いた。
 傷ついたような透明な瞳。
「…」
 マスター、と唇だけで囁く俺の髪の毛を、頬を、首筋を、主人の指先が撫でてくれる。
「愛してるよ」
 もう壊れてしまって存在意義のない俺は、存在意義のない俺としてマスターに求められている。
「愛してる」
 涙が零れた。
 何に対しての涙か自分でもわからない涙が頬を伝ってシーツへとしみこんでいく。
 マスターはその涙にも口付けをくれた。
 体の震えはいつの間にか止まっていて、手錠が酷くもどかしいと思った。
 マスターを抱きしめたいのに。
 抱きしめて欲しいのに。
 主人は俺が落ち着いたのを見ると、向こうの部屋から持ってきたらしいノートパソコンの端子に俺を繋いだ。
 ぱちぱちと簡単にキーボードを操作して、俺の痛覚を麻痺させていく。
 喉を潰されたときと同じ感覚。
 アイセンサーだけは繋がっているけれど、体が自分のものではなくなっていくような重苦しい感覚。
 俺はただ黙ってマスターを見つめていた。
「愛してるよ」
 全ての作業が終わり俺が自分で指一本動かせなくなると、マスターは満足そうに囁いて笑い、なんの気負いも見せない動作でまた俺に手を伸ばし、そのまま俺の右目をくりぬいた。あまりに自然な動作だったのでまた撫でられるのかと思っていたから、ばちばちっと電気がショートする音と重い衝撃に一瞬息が詰まった。痛みはないけれど、ぶつんと鈍い音がして狭くなった視界に目を見開く。
「これで、俺以外を見ることもないね」
 繰り抜かれた俺のガラス製のまぁるい瞳。ぱちぱちと火花を散らすコードをぶら下げたままのそれに、マスターはうっとりと微笑んで口付けた。残った俺の片目に見せ付けるように、こちらを見下ろしながら。
 声の出ない俺はまた唇だけでマスターと囁くけれど、やっぱり俺の声は主人には届かない。
「痛くないだろう?残りもすぐだから、もう少し我慢していて」
 イイコだね。
 俺よりも痛そうに、辛そうに、歪んだ表情で笑いながら、まるで宝物のように俺の右目を握り締めたマスターがまたキスをくれる。空ろになった俺の右の瞼の上にも。そっと。そっと。
 俺はただマスターを見つめていた。
 恐怖や絶望なんかはない。
 逃げようとも思わないしやめて欲しいとも思わない。
 ただ、マスターの顔をもう二度と見られなくなるのが哀しいと感じていた。
 だから、最後の瞬間までマスターを見ていよう。
 メモリーにしっかりと、マスターの顔を焼きつけるために。



  ぶつんっ



* * *

 それから、俺はまだこの部屋にいる。
 マスターがお仕事に行っている間も手錠は外されるようになったけれど、首輪はそのままで、部屋には鍵もかかっていて内側からは開けられない。
 でも、手枷の重さと同じだけマスターの不安が取り除かれたのなら、アイセンサー位安いものだろうと思う。だけど。

「ただいまKAITO」
 おかえりなさい、マスター。
「イイコにしていた?」
 俺の唇にまたキスをくれるマスターに手を伸ばして、そっと顔に触れる。俺に残されたのは触角と聴覚だけだから、指先で顔に触れて表情を読む術を学んだ。
「寂しかった?ごめんね」
 微笑んでいるマスターが、俺の手のひらにもキスをくれる。閉じたままの両の瞼の上にも。
「愛してるよ」
 そうして、マスターはまたふんわりと微笑んだ。


 だけどマスター。
 俺もマスターが大好きです。
 だけど。
 俺は機械で、道具で、もう壊れていて。
 貴方は人間で、生きているのに。


 マスター、まるで泣いているように微笑む貴方は、しあわせなんですか?


 …頬に伸ばした指先に、雫が触れたような気がした。


Special Thanx 緋月玉折様

続きそうと見せかけておいて続きません。
マスターサイドの話を作ればいいんじゃないかと言われましたが作りません。
うちのマスターは曖昧だからこそうちのマスターなんです。
つかここまできちっとマスターを作らずに来たんだからもうそれを押し通す(笑

…まぁぶっちゃければめんどうなだkry

マスターの心情面についてはご想像下さい^^*