ある暑い日のこと。

 「SOS団」と張り紙された扉をノックをしても、返事がなかった。
 感覚で中を探ってみても何の気配もない。長門もいないのか?
 珍しいこともあるものだ。回したノブの先にはやはり誰もおらず、俺が一番乗りだと空気が教えていた。
 締め切られていた窓を開け放ち、ハルヒがどこかから持ち込んだ中古の扇風機を回す。パイプ椅子を引っ張り、足元に扇風機を設置して、机の上に投げ出されたままだった雑誌を手に取った。
 もう何度か読んだ奴だが、一人では他にすることもない。勉強なんかは集中力がないとできることではないし、そんなことに時間を使うならもっと有意義に使うべきだし、古泉のように一人ボードゲームってのも以下同文だ。
 雑誌が有意義かというと…まぁアレだが。
 察しろ。察してくれ。

 多分、俺が部室に来てまだ5分と経ってないだろう。コンコン、と控えめなノックの音。反射的に返事をして、扉の向こうの人物を扉が開く短い時間の間に推理してみる。俺以外に部室の扉をノックするのは、朝比奈さんと…
「こんにちわ…あれ?…珍しいですね、お一人ですか?」
 我がSOS団の副団長、ハンサムエスパー古泉少年くらいか。
 客と呼べるような相手が来る場合を除いては。
 俺が頷いてみせると奴は軽く小首を傾げたが、すぐにいつものハンサムスマイルを取り戻し、何が楽しいのかにこにこと定位置に鞄を下ろした。そのまま座るのかと思いきやすぐにとことことボードゲームが締まってある棚の前へと行ってしまう。

「…古泉」
「はい?」
「お前、…なんか疲れてないか?」

 雑誌を開いたまま上体だけ振り返り古泉の背中を見る。ああ全く、ただ突っ立ってるだけでも絵になるんだな、お前は。同性として嫉妬するのもバカらしくなるぜ。忌々しい。
 俺を振り返った古泉は、少しだけ戸惑うような表情を覗かせた。それから、ふっと苦笑を浮かべる。それはいつものムカツクほど余裕ぶっこいている奴と同一人物とは到底思えないほど――というと多少誇張があるかもしれないが――、力ない笑み。
 それがなんだか面白くないなんて、俺はどうかしてるんだろうか。

「貴方には適いませんね」
 俺の考えなんて知ってか知らずか、古泉は芝居がかった仕草で両手の平を天井に向けて肩を竦めて見せた。
「少しばかり体育の授業で扱かれまして…」
 ダウト。残念だったな古泉。素晴らしい嘘だったが俺には通じないぜ。
 今日の1年の体育は基礎体力測定だ。岡部が言っていたんだから間違いない。お前だって知ってるだろうが。俺たちの体育の担当教師は同時に俺の担任教師だ。
「…」
 困ったような笑い顔には、やはり心なしか元気がない。顔色も多少さえない―ように思うのは流石に気のせいかもしれないが。
 何だろう、どこがどうというわけではないのだが、しいて言うなら一挙手一投足に元気がないというか、いつもは舞台上で「古泉一樹」という役を完璧に演じている役者が、今日は演技の端々から中身を覗かせている、というとわかりやす…くもないかもしれないが、まぁそういうことだ。察しろ。俺の国語の通知表は毎学期アヒルが泳いでいるんだ。自分でも曖昧にしかつかめていないものを巧く表現なんてできるわけがない。
「また、閉鎖空間か?」
「…ええ、今日の午前4時頃に発生しまして…」
 4時…というと、俺は健やかに夢の中だったな。思い出すまでもない。
「だから、少し寝不足なだけですよ。心配してくださってありがとうございます」
 にっこり笑う古泉は、もういつもの古泉の仮面をかぶりなおしている。
 むかむかするのは何故だろう。何故だろう。
 そのイラつきが顔に出ていたのかもしれない。古泉はまた苦笑を浮かべた。
「ああ、でもやっぱり少し疲れてますね。誰か来るまでの間でいいです。休ませてもらえますか?」
 そうしろ。
 短く頷くと、いつもの仮面とは違った種類の笑みを浮かべ、奴は俺の傍らまで来て…俺の肩に両手を回し、跪いて俺の胸に額を押し付けた。
「おま…っ」
「少しだけ」
 ちょっと待て。落ち着け俺。これはどういう状況なんだ?
 何で俺は古泉に抱きつかれてるんだ?
 何で俺は古泉に抱きつかれて、気持ち悪いと振り払えずにいるんだ?!
 何で俺は古泉に抱きつかれてドキドキしてるんだ??!

 古い扇風機の低い回転音が静かに続いている。それを遮るほどに俺の心臓は大きな音で鼓動している。古泉の小さな呼吸音が聞こえる。自分の呼吸音が幾ら潜めようとしてもうるさいくらい響いている。遠くで運動部の掛け声と、吹奏楽部のへたくそなラッパの音が聞こえる。部室のすぐ側の木にでもひっついているのか、大音量で蝉が鳴いていた。

 顔が熱い。全身が熱い。
 …部室が暑いのに、古泉の奴がひっつくからだ、ということにしておこう。俺のために。

 ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。
 そう思った瞬間、胸や肩がふっと軽くなった。…すっと涼しくなったのが何故か無性に心もとない。
「すみません」
 俺を見上げてにこりと柔らかな笑みを浮かべた古泉が俺に…熱っぽい唇を触れさせてから、棚の前に移動するのと同時に、控えめなノックが2回。
「遅くなっちゃってごめんなさい。今日日直で…」
 扉を開いて部室にそのお姿を現したのは、SOS団専用のスイートエンジェル朝比奈さんだったが…俺はとういと、ぽかんと阿呆のように前方を見つめていることしかできなかった。
「…キョン君?」
 小首を傾げて可愛らしく俺を覗き込む妖精の柔らかそうな唇が目に飛び込んでくる。
「あ、う、いや、お疲れ様です」
「大丈夫?具合悪いの?」
「いえ、ちょっと暑くてぼーっとしてただけですから…」
 いや、暑いですねー、と適当にごまかし、朝比奈さんの着替えに支障をきたさないようにという口実で、俺は逃げるように部室を飛び出した。対照的に古泉はのんびりと俺の後に続く。

 日が入らないため、部室内よりは体感温度は低めだが、通気性が悪いため不快感は高めの廊下で、俺は部室扉の向かいの壁を背に、古泉は扉背に、ぼんやりと立ち並ぶ。

 どうしたらいい?奴の顔が見られない。
 一体あいつは何を考えてあんな真似をしやがったんだ?常日頃から顔が近いとは思っていたが、まさかまさかハルヒ曰くのガチな5人…まさかな。
 …暑さに頭でもやられたのかもしれん。古泉は平然と突っ立っているし、もしかしたら俺が白昼夢を見たのかもしれない…って、そしたらアレが俺の無意識の願望だってことか!?フロイト先生が笑いすぎの腸捻転で死んじまうっつの!
 ていうか…夢じゃないよな。…唇に感触が残っている。くぅっ生々しい…っ

「すみません」
 俺は無意識に口元を片手で覆っていたらしい。部室扉の窓を背にして立っているため、逆光で表情がいまいち読めない古泉が苦々しい笑みを含んだ声音で小さくそう囁いた。
「貴方が僕を気にしてくださっているのだと思うと嬉しくて、つい…」
 ついってなんだついって!ついうっかりでオトコとキスするのかお前は!
「いえ、まさか…。貴方でしたから」
 小声で怒鳴るという器用な技を披露した俺に、古泉は両手を軽く広げて見せた。少しだけ俯いたせいで影になった口元が見える。いつもと同じ、弧を描いていた。
「僕は、貴方が好きなんですよ」


 だから、この世界を…貴方の傍にいることが許されたこの世界を守るために、多少の無理もします。けれど、それを貴方に悟られるなんてうかつでした。自己管理もできない自分に呆れましたよ。…同時に、貴方が気付いてくれて嬉しかったんです。
 甘えさせてもらって、抵抗されなくて、僕はうかれてしまった。
 だから、つい。

 すみませんでした。


 二度と触れませんから、今までどおりいてくれると嬉しいですと、腰を曲げてゆっくりと頭を下げる古泉に、俺は何を言えばいいんだろう。誰か教えてくれ。
 …嫌ではなかった。 ただ驚いた。
 キスをした古泉に。嫌悪していない自分に。

 好きか嫌いかの二択を迫られているわけではない。どちらかといえば「忘れろ」といわれているのだと…思うこの状況。
 …なんか冷静になればなるほどむかついてきたぞ。弱火にかけていた鍋がゆっくりゆっくり温度を上げていくような速度で腹が立ってきた。

 お前、俺の気持ちを最初から最後まで無視するつもりか。

「え?」
 驚いたように顔を上げた古泉のネクタイを引っつかみ、俺は自分からキスを仕掛けた。――勢いが余ってしまい、歯が当たって痛かった。
「…」
 驚きの表情のまま固まる古泉の頬を両手で挟み、正面から睨む。
 好きとかアイシテルとか正直に言おう、さっぱりわからん。けどな、気色悪いことをいやいやながら甘んじる俺だと思うか。特に、お前相手にだぞ。
 キスも嫌ではなかった。悪いか。そうだよ嫌じゃなかったんだ。わかったら謝るな。あんだすたーん?
「あ…え…?」
「もう入ってもいいですよ〜」
 間を計っていたかのように割り込んできた、舌っ足らずな朝比奈ヴォイスに応え、古泉の返答も待たず、俺は部室の扉を開いた。
 古泉はまだ廊下に突っ立っているらしいが、もう知らん。

「どうしたんですか?キョン君、顔が赤いですよ?」

 廊下、少し暑かったんですよ。お茶もらえますか?朝比奈さん。

 苦笑しながら、俺はオレの精神安定のために、血迷ったような台詞とか行動を、全部夏のせいにしておこうと思った。

「ホント、暑いですね、今日は」

いっちゃんのネクタイを引っ張りちゅうを仕掛けるキョンが好きなんです。察してください。
最初は古泉視点で書き出して、そっちの方が無理なことを悟って書き直し。